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「入学して半年で、まるで別人みたいになってしまって。」
先日、こんなお母さんの言葉を聞きました。
小学生の時はとにかく元気だった娘さん。部活も頑張って、友達にも恵まれていた。なのに中学に入ってから、朝起きられない日が続くようになり、部活も休みがちになり、笑顔が消えていった。
病院で検査をしても「異常なし」。でも娘さんは明らかにしんどそうで、お母さんはどうすればいいかわからなくなっていました。
「もしかして、部活のプレッシャー?」
「環境に慣れていないだけ?」
「私の育て方が悪かった?」
違います。そのどれでもありません。
娘さんの体の中で、静かに、でも確実に、あることが起きていたのです。
多くのお母さんが信じているのは「貧血がなければ鉄は足りている」という常識です。
ところが、これは医学的に正確ではありません。
貧血とは、鉄欠乏が最終段階まで進行したときに初めて現れる症状です。
鉄欠乏には、実は3つの段階があります。
✔️第1段階:貯蔵鉄の減少
銀行の預金(フェリチン)が減り始めている状態。疲労感、集中力の低下、免疫の低下がすでに始まっています。しかし、一般的な血液検査では「異常なし」と判定されます。
✔️第2段階:鉄の供給不足
預金がほぼ底をつき、体のあちこちに影響が出始めている状態。でもまだ、ヘモグロビンは「正常範囲」のことがあります。
✔️第3段階:鉄欠乏性貧血
ようやく「貧血」と診断される段階。ここに至るまでに、体の中では長い時間をかけて崩壊が進んでいます。
つまり、多くの子どもたちは第1段階の時点で「異常なし」と言われ、見落とされているのです。
疲れやすくなる。集中できなくなる。気分が落ちやすくなる。朝、体が動かなくなる。
これは気力の問題でも、性格の問題でも、育て方の問題でもありません。体の中の「貯金不足」が引き起こす、物理的な現象なのです。
では、なぜ中学に入ったタイミングで崩れやすいのか。
その答えは、鉄を消費する「3つの出来事」が、ちょうどこの時期に重なるからです。
① 身体の急激な成長
思春期は、骨も、筋肉も、血液量も、すべてが急速に増えます。血液量が増えるということは、赤血球を作るために鉄が大量に必要になるということです。身長が急に伸びる時期は、体が鉄を猛烈に消費します。
② 生理(月経)の開始
初経を迎えると、毎月一定量の血液を失うことになります。血液とともに鉄も失われます。これが毎月繰り返されることで、蓄えていた鉄が少しずつ削られていきます。
③ 部活動の開始
運動をすると、筋肉中の酸素を運ぶたんぱく質(ミオグロビン)が増えます。このミオグロビンにも鉄が必要です。また激しい運動では、足の裏などへの衝撃で赤血球が壊れ、鉄が失われることもわかっています(スポーツ貧血)。
「成長 + 生理 + 部活」。この3つが同時に起きるのが、まさに中学入学前後の時期です。
鉄を猛烈に使いながら、鉄を毎月失いながら、鉄をスポーツで消耗しながら、日々の食事だけで補充しようとしても、追いつかない。そうして貯蔵鉄(フェリチン)は静かに、静かに底を突いていくのです。
小学生の時は元気だったのに、なぜ急に崩れるのか。
これには「補償崩壊」という現象が関係しています。
人間の体は、多少の栄養不足があっても、しばらくは別の仕組みでカバーしようとします。鉄が不足しても、貯蔵鉄を使いながら「何とか」動き続けようとする。一見、元気そうに見えていても、体の中では貯金の残高が着実に減り続けているのです。
そしてある日、貯金が底をついたとき——いわば「限界」を超えたとき——体のあらゆる機能が一気に崩れ始めます。
「あの子は急に変わってしまった」というお母さんの感覚は、正確です。本当に「急に」起きているように見えます。でもそれは、長い時間をかけて積み上げられてきたものが、ついに崩れた瞬間なのです。
鉄は、体の中で200種類以上の酵素反応に関わっています。特に思春期女子の「朝起きられない」に直結するのが、以下の3つの連鎖です。
連鎖① エネルギーが作れなくなる
細胞の中にあるミトコンドリアは、エネルギー(ATP)を作る工場です。その製造ラインの核心部分——電子伝達系の4つの複合体のうち3つに鉄が必須です。
鉄が不足すると、エネルギーを作る効率が著しく落ちます。貧血がなくても「疲れやすい」「体が重い」のはこのためです。
さらに、ATPが不足すると脳が糖を渇望し、甘いものに手が伸びやすくなります。するとジュースやお菓子で血糖値が急上昇・急降下する悪循環に陥り、ますます朝が辛くなる——これが、前回の記事でお話しした血糖値の問題と鉄欠乏がつながるポイントです。
連鎖② 「起きる力のもと」が作れなくなる
ドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリン——これらは覚醒・やる気・気分に関わる神経伝達物質です。
実は、これらを作る酵素の「鍵」の部分に、鉄が不可欠です。ドーパミン合成の最初のステップ(チロシン→L-DOPA)も、セロトニン合成の最初のステップ(トリプトファン→5-HTP)も、どちらも鉄がなければ動きません。
鉄欠乏では、集中力の低下、無気力、気分の落ち込み、そして「朝、体が起き上がれない」という症状が生じます。根性でどうにかなる問題ではなく、体の中で「起きる力のもと」が物理的に作られていないのです。
連鎖③ 眠りの質が崩壊する
夜になると脳が分泌する「眠りホルモン」(メラトニン)は、セロトニンを原料に作られます。そのセロトニン合成にも鉄が必要です。
つまり、鉄が足りない→セロトニンが作れない→メラトニンも作れない→深く眠れない→翌朝起きられない、という連鎖が起きます。
「十分寝ているはずなのに、疲れが取れない」「夜中に何度も目が覚める」——これも鉄欠乏が原因のひとつです。
この3つは独立した問題ではなく、すべて鉄という一本の糸でつながっています。
エネルギーが作れない → 脳が甘いものを求める → 血糖乱高下 → 覚醒ホルモンも睡眠ホルモンも作れない → 眠れない → 朝起きられない
これが、「朝起きられない」の正体です。
血液検査で鉄の状態を確認するとき、多くの場合「ヘモグロビン(Hb)」という数値を見ます。これは「財布の中のお金」のようなもの——今すぐ使える鉄です。
しかし本当に重要なのは、「フェリチン」——銀行の預金残高を示す数値です。
体は生命維持のために、財布の中身(ヘモグロビン)を最後まで一定に保とうとします。たとえ銀行預金(フェリチン)がゼロになっても、財布のお金だけは減らさないように無理をする。だから「ヘモグロビン正常=鉄は足りている」にはならないのです。
一般的な検査基準では、フェリチンは「5以上なら正常範囲」とされることもあります。しかし、分子栄養学の臨床では、もう少し踏み込んだ見方をします。
ひとつの目安として、フェリチンが50を下回ると、体の中の貯蔵鉄はかなり心もとない状態です。理想的には100 ng/mL以上あると、エネルギー産生や神経伝達物質の合成に十分な「余力」があると考えられています。
冒頭でお話しした女の子も、ヘモグロビンは「正常範囲」でした。だから「貧血なし」と判定されていた。しかしフェリチンを測ってみると、預金残高はほぼ空に近い状態だったのです。
ただし、ここで一つ、とても大切なことをお伝えしなければなりません。
フェリチンの数値は「それだけ」では読めません。
たとえば、体に炎症があるとフェリチンは見かけ上高く出ることがあります。数値だけ見れば「足りている」のに、実際には鉄が組織に届いていない——そんなことが起こります。また、同じフェリチンの値でも、お子さんの年齢、成長のスピード、運動量、生理の状態、食事の内容、他の栄養素の過不足によって、意味合いはまったく異なります。
さらに重要なのは、鉄は不足しても問題ですが、過剰に摂っても体に害を及ぼす栄養素だということです。ネットで調べた数値を頼りに、ご自身の判断だけで鉄のサプリメントをお子さんに飲ませることは避けてください。
大切なのは、2つのステップです。
まず、フェリチンを「測る」こと。 ヘモグロビンだけの検査では見えない世界があります。「貧血なし」の裏側に隠れている鉄不足に、まず気づくこと。これが第一歩です。
そして、その数値を「お子さんの全体像と合わせて読める」医療機関で相談すること。フェリチンの解釈は非常にデリケートで、一般的な基準値の範囲内であっても、栄養学的には不足と判断されることがあります。数値の意味は、症状、食事、生活習慣、他の栄養素の状態と照らし合わせて初めてわかるものです。できれば、栄養療法に詳しい医師のもとで相談されることをお勧めします。数値を知ることは「入口」であり、そこから先の判断は、お子さんの体の全体像を診られる医師と一緒に考えていくものです。
「貧血じゃないから大丈夫」で止まらず、一歩踏み込んでフェリチンを確認すること。それが、思春期女子の体調管理における本当に重要な第一歩です。
まずは、お子さんの様子を観察してみてください。
– 朝、なかなか起きられない
– 氷をガリガリ食べたがる
– 爪が割れやすい、薄い、または反り返っている
– 階段を上るとすぐに息切れする
– 集中力が続かない、授業中ぼんやりしている
– アザができやすい
– イライラしやすい、些細なことで泣く
– 立ちくらみやめまいがある
– 顔色が悪い(青白い、くすんでいる)
– 生理の量が多い、または期間が長い
これらが複数当てはまる場合、フェリチン不足の可能性が高いです。
難しいことはありません。まず一歩から。
① フェリチンを測定する
② 赤身肉を食事に意識的に取り入れる
鉄には2種類あります。動物性食品に含まれるヘム鉄は、植物性の非ヘム鉄より**3〜5倍吸収されやすい**形です。レバー、赤身の牛肉や豚肉、マグロやカツオなどを、週に数回意識して食卓に出すだけで変わってきます。朝ごはんに卵を1個足すだけでも、タンパク質と鉄の補給になります。
③ お茶の飲み方を見直す
緑茶や紅茶に含まれるタンニンは、鉄の吸収を著しく低下させます。食事中にお茶を飲む習慣がある場合、食後30分〜1時間はお茶を控え、水や麦茶に変えるだけで、食事からの鉄吸収量が変わります。
④ ビタミンCを一緒に摂る
鉄の吸収を助ける最強の味方がビタミンCです。食事にレモンを絞る、食後にいちごやキウイを食べるなど、小さな工夫で吸収率が大きく上がります。
⑤ 必要に応じて鉄の補充を検討する
フェリチンが低い場合、食事の改善だけではなかなか追いつかないことがあります。ヘム鉄のサプリメントを適切に取り入れることで、フェリチンを回復させることができます。当院では血液検査の結果をもとに、お子さんに合った方針をご提案しています。
ただし、鉄は「たくさん摂ればいい」というものではありません。鉄はビタミンCやビタミンB6、タンパク質と一緒に働くチーム栄養素です。鉄だけを闇雲に補充しても十分な効果が出ないこともあるため、全体のバランスを見ながら進めることが大切です。
「気がついてあげられなかった」と思うかもしれません。
でも、これは気づけない形で進行するものです。元気に見えていた、笑っていた、なのに体の中では静かに貯金が減っていた。それはあなたのせいではありません。
私が日々の診察で強く感じていることがあります。
栄養とは、サプリや食材の中だけにあるのではありません。「あなたのせいじゃなかったんだ」とわかった瞬間の安堵。「原因があったんだ」と知った時の希望。そうした「見えない空気」もまた、親子の体と心を回復させる強力な栄養になるのです。
「だらしない」と叱ってしまった自分を責めないでください。知らなかっただけです。
大切なのは今日から。フェリチンを知ること、そして必要なら補充を始めること。
体の土台が整えば、あの頃の娘さんの笑顔は必ず戻ってきます。
それを私は、多くの子どもたちで見てきました。
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小森こどもクリニック 院長 小森 広嗣(こもり こうじ)
慶應義塾大学医学部卒。都立小児総合医療センター外科医長などを経て小森こどもクリニックを開院。
小児科医・小児外科専門医として数多くのおなか(消化管)の手術や治療に携わり、「こどものお腹のスペシャリスト」として消化管の構造と機能に精通する。
自身や家族の不調が栄養療法で改善した手応えから、「西洋医学だけでは届かない不調」の解決策として「栄養」の重要性を確信。 「吸収の場である腸」と「体の材料となる栄養」の両面から、標準治療と分子栄養学を柔軟に組み合わせ、その子の体の土台を根本から整える「統合的な医療」を実践している。 日本小児外科学会認定専門医・指導医、医学博士。